ブログをはじめて3年になる。
ぐらいの書き出しだと、振り返ることの重みというか意味みたいなものがありそうだけれど、ブログをはじめて1週間に満たないワタシ。そんなワタクシが早々と「書くということ」について考える意味はあるのだろうか。いや、意味を問う意味はない。ただ、書くことに意味がある。ただ、そこに、書くのだ。なーんてね。
正確に言えば、このブログをはじめるずっと前、Facebook、さらにはmixiと遡れば、たぶんざっくり15年ぐらいは「何かをweb上に書いている」ことになる。その内容や頻度はさておき、この「web上に書く」というのは良くも悪くもいろいろあるわけだけど、やはり自分にとって重要なのは「他の人からのリアクションの存在」だ。それは承認欲求とか言う話のもっと手前の話だ。
誰でもいい。とにかく誰かが読むことを前提に自分なりの文章を書く。
そういう経験をたどってみると、まずは小学校の読書感想文が思いつく。あんまり気持ちよくかけた記憶はないけれど「先生に読まれる」ことを前提に書いていたと思う。国語の授業やテストも、確かに先生を意識していた。「自分が思っていることが正解ではない。自分の想いに丸をもらえるわけではない」ことがわかるにつれて「先生にとっての正解。国語という世界の中でのもっともらしい正解」を書くようになる・・・という多少歪んだ形ではあったけれど、それでも割と楽しんではいた。教科書やテストの中であたらしい物語や世界に触れることが単純に楽しかったし、求められる評価の尺度がどうであれ、納得のいかない○×であれ、そこには先生からのリアクションがあった。
その後、中学・高校の6年間は、誰かを意識して書くことはほとんどなかったように思う。いわゆる進学校にすべりこみセーフしたワタシは、点数・評価の怒涛の日々をこなすのが精一杯になっていた。その中で、現代文は扱う文章がつまらなくなっていたし、古文の内容は興味深いと感じたけれど、結局は暗記科目に堕していた。普通の読書も激減した。それでも今こうして振り返っていると思いだす。高校3年生の秋ぐらいだろうか。とある大学の受験科目に「小論文」という文字をみたワタシは確かにこう思ったのだ。
「小論文か。へー、理系で小論文書くんだ。ふーん・・・いけるな。」
この「いけるな」という感覚。ワタシは書くことに対するストレスを持ちあわせていなかったのだろう。細かく思い返せば、どんどんとつまらなくなった現代文の授業、テストの中でも、求められている解答の中に、どのくらい自分のエッセンスをいれてもいいのか、あるいはどういったエッセンスをいれれば「模範解答のその先」にいけるのか、そんなことを少なからず意識していたように思う。そんなこともあってか、書くことも読むことも比較的少ない理系の中では「割と書ける方だろう」という根拠のない自信があったのだと思う。
そして実際に、小論文と数学と英語、この三つで大学に合格した。
大学というのはご存知のとおりレポートがたんまりとある。そして、その中にはときに「深く考える価値のあるテーマ・考えるのが楽しいテーマ」がある。「宗教のはじまりについて」とか「人口知能が文学を読めるか」とか「雑木林の存在意義」とか「これからの都市計画のあるべき姿」とかそんなものたちだ。中学・高校時代の書く行為のつまらなさ、現代文の授業に付随する書く行為のつまらなさから解放されたワタシは、大学で出会ったレポートというもの、自分なりに洞察し文字に落とし込むレポートという作業 を気に入った。大学が許す限りの留年をしたけれど、おもしろい課題には意欲的に取り組んだ。考え、書き、提出した。レポートボックスに投函する瞬間は、自分の分身が、しかも割と活き活きとした分身が旅立つような、自分から湧き出た作品を送り込むような、そんな心持ちさえあった。
ところが、ワタシの通った大学は興味深いテーマを与えてはくれたものの、決定的なものを欠いていた。
それが「リアクション」だ。
(その2に続く)