物語の喪失が生む『物語の消費』という悪夢
※このテキストは2018年2月(3年前)に書き留めたものを微修正しています。加速する技術革新、さらにコロナ禍の中で、この「物語」や「体験」に関する捉え方はめまぐるしく変化してきました。以下に記すマーケティングも4.0ではなく5.0についての書籍も出版されています。ついては、このテキスト・考察もアップデートが必要ですが、4.0までの私的所感としてアップします。
消費活動は『モノ』から『コト』へと推移したという。
ま、なんとなくわかる気がするが、それは一体どんな流れでそうなってきたのか。そして、それは一体どこに行きつくのか。勝手な勉強の成果と懸念の提示をしてみたい。突然だけど。
『モノからコトへ』とはどういうことかを考えるにあたり、マーケティングの大家、『父』あるいは『神』とさえ称されるフィリップ・コトラーの言が参考になりそうである。コトラーによれば、生産技術と経済状況に左右されるその時々のマーケティングの様相は、これまで大きな3つのステージ(マーケティング1.0~3.0)を経て、現在第4のステージ(マーケティング4.0)にあり、近年提唱された3.0および4.0でコトラーが見据えた時代潮流の中に、『モノからコトへ』の歴史的文脈と確かな現在地を見定めることができそうだ。
後で必要になるので、ざっとこの4つのステージを確認しておこう。
マーケティングという概念が生まれた20世紀初頭、その姿は、産業革命が可能にした大量製造を背景として社会に不足している(庶民が渇望している。というか渇望させた!)文明の機器を、購買力をつけ始めた消費者に届けるという『製品中心のマーケティング』であった(1.0)。その後、生産技術の向上は製品の品質の差をなくしいわゆるコモディティ化が進む。あわせて経済成長の鈍化に伴い需要自体が縮まる。大差ない商品を売るために価格競争がはじまり企業の利益が減る。これを打破すべく消費者・ターゲットを具体にイメージした『消費者志向のマーケティング』が芽吹いたのである(2.0)。それを可能としたのは、テレビ、その後のインターネットの普及、つまり情報技術の進化である。消費者の属性・趣味・思考・ニーズに寄り添おうとした当然の帰結として、かつて1.0の頃は機能的であるだけで価値があったものが、「かっこいい・自由・癒し」などの感情的・情緒的な価値を伴って差別化を図り始め、いわゆるブランディングの時代が到来する。そうした中、2010年、コトラーはマーケティング3.0を提唱する。曰く、「単に人々を消費者とみなすのではなく、マインドとハートと精神を持つ全人的存在ととらえて働きかけ」、その全人的な存在に対して「機能的・感情的充足だけでなく精神の充足をもたらす製品やサービスを提供する」時代なのだと。
ここで、念のため再確認しておこう。マーケティングの世界において、神とさえ称さるコトラーの口から出た言葉を。20世紀初頭に誕生したマーケティングという概念において、我々消費者は、21世紀になってようやく、100年の時を経てようやく「マインドとハートと精神をもつ全人的存在」つまり「人」とみなされたのである!近代以降、企業側から見た私たち(消費者)が人として扱われるまで100年…衝撃である。つまるところ、マーケティングとはその程度のものだということだが、この種の衝撃はマーケティング同様に経済学のエッセンスを大きく取り入れた交通工学(道路とか交通のネットワークがどうあるべきかを考える学問)でも同様のことで、移動する人が感情と意志をもったいわゆる人として認められたのは、驚くべきことにマーケティングの世界と同時期だと言えよう。全く近代以降の学問というかインテリゲンチャーは一体なにを見てきたのかむしろ興味深いが、ここではそれはさておく。
100年かけてようやく人を見据えたマーケティング業界は『価値主導のマーケティング』へと転換し、その目的は「消費者を満足させ、つなぎとめること(2.0)」から「世界をよりよい場所にすること(3.0)」に移行した。「動乱の時代(コトラー談)」である現代であればこそのなかなかの飛躍であるが、相手を人と見据えた瞬間にその人を取り巻く世界自体をよりよい場所にする、それが企業のミッションになったというのだ。精神の充足さえもたらす価値の提案は、その「相手」の集合体である世界を充足させる、世界をよりよくすることにつながるべきだ、と考えてのことだろうか。その真意はさておき、ここまでの1.0~3.0までの変遷が、考え方の枠組み・フレーミングの変化だった(だからこそ結構ドラスティックな変化であった)のに対して、4.0に向けての変化は、実際的な手法の変化が主となる。つまり、4.0では、スマートフォンの急速な普及によるオンライン交流の莫大な活性化を背景として、相対するオフライン交流(体験)の重要性が説かれ、『オンラインとオフラインの交流の一体化』、そして『ブランドの本物の個性、オーセンシシティ(真正性)』が重要だと指摘されている。オフラインによる「本物の感動体験」は、その後オンラインでもオフラインでも推奨と波及が進むというわけだ。
いやー長かった。本物の感動体験の重要性に気付くまで100年以上かかってしまった。そのお陰で、この文章もまだ前書き段階なのにひじょーに長くなってしまった。
最初に戻ろう。『モノからコトへ』であった。長い前書きで示したとおり、『モノからコトへ』の流れはマーケティングにおいて提案される価値の変遷に対応している。つまり、機能的価値(1.0)に感情的価値が加わり(2.0)、さらに精神的価値が加わった(3.0)のが私たち消費者の現在地なのだ(マーケティング的には)。というか、これら価値の変遷に対する説明をぶっとばして共有可能なワンフレーズにしたものが『モノからコトへ』なのだろう。
マーケティングは世相を反映すると同時に、世相を生み出す力を有する。企業活動がそれを「生み出すことを欲する」ためである。「世界をよりよい場所にする」のがマーケティングの目的として明示された今となっては、なおのことである。そうである以上、『モノからコトへ』の流れは限定された分野や一時的な流行りでもプロパガンダでもなく、次のステージまで続く御し難い『時代の流れ』であることは、その背景を鑑みても確定的なのようである。
さて、『モノからコトへ』、ただ製品を求めるだけでないと。体験だと。その共有と共感だと。そう言われると、なんだか無機的で物質的なものから有機的で人間的なものに価値がシフトしてきた、なんだかいい流れじゃないカー、なんて思いそうですが、私はちょっと不安視しているのです。
なぜか。コトの消費は多くの場合『体験の消費』によって代表されますが、この体験とは、消費する商品なので、すなわち与えられた体験です。さらに、体験といってもジェットコースターでイェーイ、みたいなそれではなく、文化・風土に触れるとか、洗練されたあるいは伝統的な技術に裏打ちされた製品のその背景に触れるとか、味わうとか、いずれにしても精神的価値の高い「本物の感動体験」が求められているのです(とコトラーが言ってます)。この種の「本物の感動体験」をもたらすもののほとんどは、「本物たり得る物語」を内包したものに違いありません。そう、コトの消費、体験の消費とは、物語の消費に他ならないのです。コトの消費に推移したとは、いよいよ「物語が消費される時代」に来たことを意味するのです。
物語。それは本来、どこにでもあります。まず、私たち個人の中にあります。生きてきた分だけあります。そして、家族の中にもそれぞれの物語があるし共有しているものたくさんあります。同じ地域に住む人々の中にもそれぞれあるし、やはり共有しているものもたくさんたくさんあります。人や時間が広がるほど物語の総量は増え、共有される物語の厚みも増えます。例えば路地裏で遊んだこととか、近所の変わったおじさんとか、通学路とか、祭りの日の高揚感とか、神社への畏敬の念とか、歴史とかそんなものたちです。これら地域固有の物語を共有していればこそ、共感や協働がうまれます。翻って、昨今叫ばれる地域コミュニティガーとか、地域内の共助の精神ガーとか、バラバラの時代ガーといった社会問題の背景に、この「物語の喪失」が指摘されることが多くなっています。物語の喪失は、地域と個人を解体し、無愛想で活気のない、そしてどこへ行っても変わらない均質で殺風景な地域ができあがる、といった次第です。
はい、ようやくここまでたどり着きました。そう、現代は「物語を喪失した時代」なのです。つまり、「物語を喪失しちゃっているわたしたちが、他人、他所の物語にお金を払って消費している」時代なのです。あるいは、「物語を持てなくなっている」からこそ「物語の消費」が進んでいるとさえ言えるかも知れません。そうだとするなら…『モノよりコトへ』を消費のシフトを、人間的なものへのシフトとして歓迎しているばかりではいられません。なぜなら、物語は消費するものではなく、紡ぐべきものだからです。消費活動のように個が中心となるものではなく、土地(舞台)を共有する一定数の人間の物語が個にも全にも絡み合って紡がれるべきものだからです。
キルケゴールは言います(現代の批判)。現代は、「感激の冒険を芸の展示に変えてしまう」であろうと。現代は、「一時的に感激に沸き立つという点でも、そうかと思うとやがてまた冷淡な無感動の状態に帰って、せいぜい冗談ごとを好むという点でも、喜劇的なものにごく近い」時代だと。私にはコトの消費、物語の消費がキルケゴールの言う「感激の冒険を展示に変える」ものになることを大いに危惧しています。「一時的に感激に沸き立ち、やがてまた無感動の状態に帰る、喜劇的なもの」でしかないと日々感じています。つまるところ、『モノからコト』への消費の変化も、結局のところ19世紀の頃から予言されていた近代の弊害の一つなのかも知れません。