暗黒舞踏と個と全と情と

北海道には、北海道舞踏フェスティバルというのがある。2017年から毎年1回、少しずつ規模・開催地を増やし、海外からも舞踏家を招聘し、現代日本ではちょっとめずらしいほど舞踏に没頭できる貴重なフェスティバルだ。

ところで「舞踏」という言葉はどのくらい知られているのだろうか。

「舞踏って聞いたことあります?・・・あの、暗黒舞踏なんていう言い方もしますが・・」

自分も、そんな口調で話すことが多かったことを思い返せば、まぁ結構マイナーなんだろうなとは思う。ちなみに、なんでじっちがそんなことを話す機会があったかというと、じっちの奥さまは一時期この舞踏の踊り手だったからで、その奥さまの公演をSNSで紹介したり、時にはじっち主催のイベントに出演してもらったりと、じっちは素人ながらに比較的舞踏に近い場所で時間を過ごしていたからなのです。

さて、今回はそんなあんまり世に知られていない舞踏・暗黒舞踏についての魅力・歴史をざっくり紹介してみようと思います!

うそです。

そんなことはしません・・・というかできません。そういうの苦手なのです。気になる方は1960年代、暗黒舞踏を創生してきた巨頭、土方巽に関する書籍『土方巽 絶後の身体』、あるいは大野一雄に関する書籍『大野一雄 魂の糧』などをご参照ください。ぜんぜんざっくりとした書籍ではないですが、世界が伝わると思います。いやいや動画を見ればいいじゃない、と思う方も多いでしょうが、これはぜひとも現場で空間と時間をぐにゃぐにゃしながら見るのが吉なので、個人的には書籍がおすすめです。あ、世界を大切にしながらきりとっている写真集ならいいかも知れません(たとえば、女性舞踏手集団『鈴蘭党』の写真集『舞い舞いLOVE』など)。

改めまして、

本題です。今日の投稿では、一般に「難解・・・よくわからない・・・ゲイジツってむずかしい・・・」と言われがちな舞踏・暗黒舞踏について、ある舞踏手のテキストとある数学家の書籍を頼りとしながら、なんだか「それっぽい」ことを書いてみよう と思います。特に意味はないです。楽しい思考実験です。

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まずは最初のテキスト。舞踏家田中泯の論説『ぼくはかろうじて立っている哺乳動物だ』から。

本当に大切なのは、体の外側の理由と体の内側の理由がピチッと合う、そういうことなんです。例えば沖縄の「エイサー」という太鼓を叩いて女の子たちが踊る、あれだって、ことごとく意味合いを持っていた。共同体の中で、太鼓を叩くということは何だったのか。手の動き、体の返しから、すべてにおいて意味合いであふれていた んですね。でも、今は、音を鳴らすために叩くだけ。形だけになっちゃった。そうすると、ほとんど虚業ばっかりなんですよ、そのものが。本当は、もっともっと 存在が中身で満ち満ちていたはず なんです。ところが、今は、頭で考えないと体が満ちないんですよ。

広告-恋する芸術と科学-vol.390、エコ・エゴ・エロス/博報堂/2012

さらに

踊る人が鏡を見ちゃいけないんです。アマテラスなんか、まさに御神体が鏡だったりなんかする。インドでは衣装が鏡だらけになったり、鏡をどこに置くかが踊りの芯にはある んですね。僕にとっては、自然と自分が、鏡。

(同上)

続く書籍は、数学者岡潔の講演や論説を独立研究者森田真生さんが編集・解説した書籍の中で、道元禅師の「聞くままにまた心なき身にしあらば己なりけり軒の玉水」について触れた部分から。

自分がそのものになる。なりきっているときは「無心」である。ふと「有心」に還る。その瞬間、さっきまで自分がなりきっていたそのものが、よくわかる。「有心」のままではわからないが、「無心」のままでもわからない。「無心」から「有心」に還る、その刹那に「わかる」。これが岡潔が道元や芭蕉から継承し、数学において実践した方法である

数学する身体/森田真生/新潮社/2015

なぜそんなことができるか、それは自他を超えて、通い合う情(情:大宇宙としての情、情緒:森羅万象の一つ一つの情/岡潔の分類)があるからだ。人は理でわかるばかりでなく、情を通わせ合ってわかることができる。他の喜びも、季節の移り変わりも、どれも通い合う情によって「わかる」のだ。

(同上。一部加筆)

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さて。

私たちの多くは体の外側の理由と内側の理由があっていない「虚業」に興じていると危惧されますが、その 虚業からの脱却は「鏡の置きどころ」だ ということが田中泯により示唆されています。これは 瞑想を通じた覚醒の過程(鏡を自覚して真我に目覚めること)とか、魔術における基礎、すなわち 人間は一つの小宇宙であり、身体・意識を構築するすべての部分が大宇宙のどこかに対応している という基礎が示す「内外の関係・対応性」にもつながる話でしょう。

そこに「無心と有心の間の往復運動・循環運動」の中に「わかる」を見出した、そしてその往復運動・循環運動そのものに「情」を見出した岡潔のエッセンスを加えると・・・こうなります。

すべての物事はこの身の内にあり、全く等価にこの身の外にある。

つまり「個」はすでに「全」なのであり、

その「全」を通じてそれぞれの「個」がつながる

(というかすでにつながっている)

だから「他」のことが「わかる」。

「全」があるから「わかる」。

「全」に戻る、「全」から「個」に還ってくる、

または「他」に通じる、

その運動が「情」。

わかりやすいストーリーなど皆無な舞踏。それでもときに泪する。わかりやすいストーリーなど皆無な舞踏。それでもときに3歳女児でも心酔する。それはこの「情」という運動が理性(解釈)など関係なく生じ得ることの証左なのかもしれません。

以上、いかがでしょうか。わかりにくい舞踏を一層わかりにくく抽象化して、結果的にそれっぽい感じにしてみました。

最後に、今回は 理性的に考えた結果、理性外の結論に達する わけですが、それこそが数学が2,000年以上かけてようやく「理性的に証明した数学的事実」と同じであることもまた、楽しい余談として追記しておきます(参照:『人間の建設/岡潔、小林秀雄』)。

理性の境界を越えていく。

 数学では、それを理性的に実現しました。

 舞踏では、それは身体によって実現するのでしょうか。

そんな見どころも含め、みなさまもぜひ、舞踏・暗黒舞踏の公演に足を運んでみてください。

それではまた、素敵な日々の素敵な隙間にお会いしましょう。Chao!!

鹿児島出身東京経由小樽着。 小樽銭函エリア、春香山の麓『古本屋 DUAL BOOKs』店主。

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