「これ読んだら、うちにある他の本、もう読めないかも」
ある日ある時、妻がそんなことを言い出した。これまでの読書経験の総括、これからのミライ読書へのサヨナラを告げるような言葉だ。それは一体どういうことかと聞いたならば、ワタクシなりに「なるほど・・・」と思うところがあった。とは言え、本を愛するものとして「なるほど・・・」で終わらすわけにはいかない。私は「うちにある他の本」の背表紙を見渡して、一冊の本に目を留めた。その瞬間、ある回答にいたった。
「なるほど。その感覚の延長で読むとしたら、もう童話とか児童書しかないかもね」
私はこの自分の回答のセンスに一定の自信をもっていた。しかし、読書という我が家において各々に多くの示唆を与えてくれたモノゴトについて、「これ読んだらもう・・・」というほどの決定的なターニングポイントの意味を捉えるには、この私の回答の確からしさを是が非でも自ら確認せずにはおれなかった。
このとき目を留めた本が M・エンデ『はてしない物語』だった。それは、小学5年生の頃に読み終えられなかった未読の書であり、約30年の時を経て手にする書であった。我が家の読書という営為におけるこの不可逆的なターニングポイント、臨界点を超え、寂しささえ伴う前進の是非を判ずるにあたって、これ以上に適切な書があるとは思えなかった。そして読んだ。
『はてしない物語』M・エンデ
『はてしない物語』を読む時間。それは夢のような時間だった。夢のような時間には夢のような出来事が起きた。夢のような世界観で現実を照射し、物語は現実を侵食した。あるいは現実を物語化し、現実を夢化した。時間は不定形に境目なく流れ、同時に留まった。空間が可能性であふれた。感覚は鋭敏になり、同時に優しくなった。物語は私の闇を描いた。それは断罪されるより先に許された。そもそも愛されていた。物語は私の光を描いた。それは行先を標すよりも内側を照らした。そもそも愛されていた。多くの物語は語られなかった。その存在の示唆があるだけだった。『はてしない物語』には、書かれていない物語をも含んでいた。その書かれていない物語の中には「私の現実」も含まれていた。きっと「あなたの現実」も含んでいる。それは「全ての人の物語」なのだ。自他、夢と現(うつつ)の境界は溶解し、全ての存在が詩となった。それでもなお、夢と現のそれぞれに大切な役割が与えられていた。
児童書・童話の可能性とその先
『はてしない物語』を読んで私は確信した。「これ読んだらもう他の本は・・・」という提議に対しての緊急的な回答「児童書・童話なら大丈夫」という回答は、的を得たものであったことを確信した。
同時に、読書ステージなるものがあるとすれば、我が家のそれは、寂しさを伴いながら次のステージへと、不可逆な前進を強いられたのであった。
同時にまた、私は次の予感を得た。どれほど先のことかはわからないが、いずれ、この不可逆性が可逆となる瞬間がくるだろう。
『はてしない物語』の表紙に描かれている瞬間 が
白蛇と黒蛇は互いの尾を咥えて円を成す瞬間 がくるだろう。
そのとき
はてしない物語のあらゆる入口とあらゆる出口
あらゆるはじまりとあらゆるおわりがつながるのだ。
そのとき我々は
活字の海も活字外の海も 夢も現実も 過去も未来もこの一瞬も
あらゆる物語を自由に翔べるのだ。